燕の背脂極太麺ラーメンの発祥のお店「杭州飯店」にお話を伺ってきました。
今回はQ&A方式ではなく、店主 徐 勝二氏のお話をそのまま掲載致します。
【杭州飯店の外観】
【店主の徐 勝二氏】
【 東北を巡り、燕市に辿り着く 】
父が中国から日本にやってきたのは、昭和初頭の事です。
宮城県仙台市から屋台を引きながら東北各地を渡り歩き、最終的に新潟県燕市へと辿り着きました。
東北では稲刈りを終え、温泉地で体を休める人達にラーメンを食べてもらい、喜んでもらっていたと聞いています。
そして昭和9年、燕にやってきた父が開いたお店が福来亭です。
当初は、屋台を燕市の真ん中において営業していました。
戦前の燕は、洋食器、金物などの製造でとても景気が良かったそうです。
工場で働く人達が食べに来てくれたり、出前をしたり。1つの工場から
「9時までに300杯のラーメンを作ってくれ」
と言われた事もある程です。
【 燕という土地が生んだラーメン 】
屋台のラーメンというのは元来、あっさり薄味で麺が細いものです。
しかし、洋食器工場で働いている方々は、とても暑い環境で仕事をされているので、大量の汗をかきます。
そういう人達の要望に応え、しょっぱくする事にしました。
しかし、 単にしょっぱいだけでは美味しくありません。
「塩分を高いままにしながら、しょっぱさを緩和するにはどうしたら良いだろう?」
と考えている時に、肉屋さんで山積みになっているラード作りに使われる脂肉を見て、
「これをラーメンのスープに入れたらどうだろう? きっと甘みが出るはずだ!」
と考えました。
出身の中国の村では、各家庭でラードに漢方薬を入れて匂いを消し、そのラードで野菜炒めを作ったりしている事もヒントになっていたと思います。
麺は出前で伸びてしまわない様に、極太麺にする事にしました。
細麺と比べ、腹持ちが良い事も、工場労働をされてる方々にとって都合が良かったと思います。
お客様の要望に応えてきた事で今のスタイルが生まれました。
色々な地域を巡り燕市にやってきましたが、偶然にも燕に辿り着けたのは幸運でした。
他の地域であったなら、あっさり細麺のラーメンを作っていた事でしょう。
【 素材へのこだわり 】
素材も生き物ですから、同じ種類、同じ産地であっても、常に異なってきます。
例えば煮干ですが、鳥取と長崎で採れたものの中から、選びぬいたものを使用しています。
良い物は量が限られていますので、うちと同じ物を手に入れようとしてもなかなか難しいと思います。
そして良い煮干が手に入ると、新潟市の市場にある冷凍庫でマイナス50度の状態で保存します。
麺についてですが、こちらは製麺技術と同じ位、粉が重要になってきます。
大きな会社では、粉の配合などの面で、こちらからの細かいリクエストに応えてくれないケースが多いのです、こちらの要求に応えてくれる長野県にある製粉屋から仕入れる事にしています。
【 スープについて 】
当店のラーメンのスープは、煮干、ゲンコツ、背脂と単純な組み合わせですが、素材の比率・バランスを重視しています。
あと、良く古いスープを継ぎ足していくという方式を聞きますが、当店では毎日新しいスープを仕込む様にしています。
これはスープに臭みを残したくないという事もあります。
【 麺について 】
麺は自家製麺を使用しています。
よく
「手打ちですか?」
という質問を受ける事がありますが、手打ちではなく機械で打っています。
何故なら麺に力を持たせるには、人間の力では無理で、機械の力が必要になってくるからです。
ですので、独自の調整(モーターの回転数、歯車の数等)を施した機械を使って麺を打っています。
【 最後に 】
今は、ラーメンに限らず美味しい物がどんどん出てきて、お客様もたくさんの美味しい物を日常から食べています。
それに負けない様に
「自分の味を持つ」
それが大事だと思います。
そして、燕という土地が生んでくれたラーメンの味を守りつつ、常に改良を重ねていく事を怠らない様にしなくてはいけません。
「常に全力」
そういう気持ちで今後も努力を続けていきたいと思います。
【中華そば】
【カレー中華】
【正油五目そば】
【出来上がったスープ】
【厨房の様子】
【貴重なマッチを頂きました】
杭州飯店の当サイト紹介ページ
(掲載日付 2011年5月11日)
追記 2016年1月16日
杭州飯店のラーメン1杯が出来るまでの取材を行いました。
自家製極太麺を茹でます。
茹で上がりの手前に、背脂入りのスープをすくいます。
タレを入れた丼に、スープを手編みで濾しながら注ぎ入れます。
茹で上がった麺を平ざるで湯切りします。
麺を丼に入れます。
※脂がたっぷりと浮いた丼に麺を入れる事で、麺全体にコクのある良質な脂を絡める効果があるものと思われます
盛り付けて出来上がり
【現店主 徐 直幸氏と奥様】